さっきYoutubeにこんなコメントが来ていた。

理解できることしか受け入れられないタイプの人もいるので、こういうコメントはたまに来ます。
“引きます”と本人が見えるところに書いてしまう点に私は引いてしまうのですが、
最近気になるのは、”負け組”という言葉です。
この前、弱者男性という言葉について考えた記事でも触れたのですが、
自分のステータスを他者との比較、
他者との勝敗によって判断している方が多いんだなぁということを感じざるを得ません。
もちろん、私も他者とステータスを比較はします。
あの人は金持ちだなぁ、あの人はイケメンだなぁ、あの人みたいなピュアな心をどこに忘れてきてしまったんだろう?(はじめから無い)とか。
たしかにそこに勝敗は存在するし、その点において私は劣っていると思うことはあるけど。
それと同時に、それが全てではないしなという方向にも考えが広がるのです。
お金があれば幸せか?という問いがあります。
たしかにそこそこの幸せは金があれば実現できます。
ありとあらゆる危険について、その大半はお金があれば回避出来るでしょう。
働きたくなければ働かなければ良いし。そうすれば仕事のストレスはたまらない。
家から出なければ交通事故にも遭わないし、頻繁に人間ドックでも受けていれば、そうそう病死もしないでしょう。
安全方面はお金で買えそうです。
でも、タワマンに住んでいたあの人達は寂しいと言っていたし。
実際、マチアプのプロフ欄に”寂しいです”と書いていた。
そういう事例をいくつか見ていく中で、
私は必ずしもお金を持っていること自体がうらやましいとは思わなくなったし、
むしろタワマン住みの彼らのようにはなりたくないとすら思った。
金があればドーパミン的な幸福は買える。
でも、オキシトシン的な幸福は買いづらい。
買えないこともないとは思うけど、それで満足できるかは元々の性格が影響しそう。
大事なのは、金があるかないかより、その金を使って何をするか?ということだと思う。
私の場合、お金は無いけど、やりたいことはできているし、この生活が私の身の丈に合っていると感じる。
その時点で、私はあの悲壮感や虚無感を漂わせていた金持ち達より勝ち組だと思う。
というか、勝ちとか負けとかはその一面においてという話であり、
結局は金持ってようが容姿が整っていようが、より幸福を感じて生きている方が勝ちなのだ。
金や容姿など表面上の一要素だけを見て、勝敗を判断すること自体が浅はかであり、
そもそも生き方に勝敗をつけようなどという考え方自体も愚かである。
そのヒトがどれだけ幸福感を得ているのかを放出されたホルモン量を計測して数値化したところで、
それに対する感じ型は、ホルモンを受容する器官の数なんかによっても変わるだろうし。
というか、いっぱいホルモン出てたら勝利なの?笑
みたいな感じで、幸せの大きさで勝敗を決めようなんてのは考えれば考えるほど愚かで滑稽なのである。
人それぞれ必要としている幸せの形(求めているホルモンの種類?)は違うのだから、
他人と比較せず、自分が得たい幸福を探求していってくださいな。
そもそも私は、私自身を他人様と比較はできないと思っている。
比較をするには皆様あまりにも個性的で、違いすぎているからだ。
比較をするには、比較をする項目以外の項目はすべて同じ条件にしなければならないが、
そんなことはできない。
私は皆様の方が頭がいいと思っているし、コミュ力もめっちゃ高いと思っている。
それは学生時代を通じて体感したことで、私がボッチ街道を突き進んできたのは、
皆さんのお高いコミュ力についていけなかったからである。
皆さんは雲の上の人達だと思う。
そういう雲の上の人達が、正社員労働しつつ結婚して家買って子供育ててみたいな社会のレールの上を歩くのであって、
私にはそんなもん無理ですわと中学生くらいから思ってた。
私は昔から他人様と生き方を比較できなかったのである。
それによって、私は私の幸せの香りがする方へ直感的に進んで、今に至った。
そういう背景がある私ですゆえ、
昨今のSNSで見かける”人生や生き方を勝敗で判断する”といったことに気持ち悪さを感じてしまう。
他人と比較した勝ち負けとか気にせず、
いま自分がやりたいことをやっている状態を積み重ねていけば良いと思うのだけど。
そういう悩める現代人に必要なのは、他者を観察することではなく、自分自身を内省することなのだろうと、
私は思う。
twitter:@gintarou_k








