twitterで色々な人の自分語りを見ていると、色々と思うことがある。
しかし、この「色々と思う」ということが以前の私には無かった。
以前というのは、高校生以前の私である。
あの頃の私は、意見や感想といったものを持っていなかった。
自我が無かったといえばおかしな日本語になるが、まぁそういった感じだったと思う。
読書感想文は、作者の小説の書き方の意図という機械的な内容で書いた。
何か感情を抱けば動き出すものもあるかもしれない。
そんな風に考えて、思おうとしたこともあったけれど、思えたことはほぼ無かった気がする。
きちんと思えた瞬間は、特定の人との会話の面白さ・バドミントンの楽しさ・雪が積もった時の高揚感…。
そんなに数は多くない。
というここまでが去年の11月、堕落期に書いていたらしい内容。もはや書いたことすら忘れていた。
深夜にブログの下書き記事を整理していたらこの変な記事が出てきたので、ちょっと加筆して世に晒そうと思う。
まず、自我が無かったは流石に言い過ぎだが、感情が動きにくかったことは事実。
味や臭いといった感覚以外の感想は、同情や共感といったものから生じることが多いように思うが。
当時の私は圧倒的にあらゆることに対して経験不足だったのだろう。小学校高学年からボッチ街道を歩いてきたのだから、対人関係の経験不足は特に酷かったようだ。
それが今では、出来事に対して多量の意見や感想を述べられるようになった。
これは大学時代に様々な経験を積んだからだろう。
大学2年位までは、コミュ力の低さからこのままでは私を雇ってくれる所は無いだろうなどと思い若干意識高い系になった時期もあった。
ヒッチハイクやったり、出会い系で人と会いまくったりすることでコミュ力が上がると思っていたらしい。
一見馬鹿げているが、変な人達を見て多様な価値観に触れる中で、逆に自分自身を客観的に見られるようになった気がする。
その多くは、私はこんな風にはならない、なってはいないだろうか?という反面教師的な気付きだったが、それらが間違いなく現在の私の人格を形成している。
人生の中でも自由で時間のあった大学生活が、私に人間性を与えたようだ。
現在の私に向上心は無い。
人生の目標を見つけていて、それを達成する難易度は低いと感じているからである。
私の目標の達成に、努力はさほど必要無い。
世の中にはやけに意識高い系が多いなぁと思うが、彼らはどこを目指しているのだろう?
冷静になってゴールを整理してみたら、する必要の無い努力をしている人もけっこういるのではないかと思う。
まぁその辺は各々がやりたいことをすれば良い。
若いうちの裏テーマである彼氏を作るというところ、ゲイの私の中では結婚のような形と同義であるが、こちらも十分に数は打ってきた。
歳を取って、他人と会えなくなったとしても、もう後悔なく満足できるくらいである。
半自給自足を目指した隠居。
これが達成できれば、もう死んでも悔いは無い。
私の中で良い人生とは、悔いの無い人生のこと。
今のところは順風満帆である。
この先には不慮の障害が訪れることもあるかもしれないが、道ははっきりしているので。
てきとうに逃避しながら、多少はぶれたとしても一本道に帰って来たいものである。
方向さえ間違えなければ、辿り着く先はほぼ同じところ。その一つがダメなら別ルートを使えば良い。
柔軟に考えることを忘れずに。
以上、深夜のテンションで書いた超自分語り記事でした。
twitter:@gintarou_k