人は善か?悪か?
たまにサイコパスのような人間を目にすると、人間存在を否定したくなることもありますが、人の本性はどのようなものなのでしょうか?
性善説とは、「人間が生まれ持った本性は善である」という主張です。孟子という思想家が見出しました。
対して性悪説とは、「人間が生まれ持った本性は悪であり、善の性質は努力や教育によって後天的に獲得される」という主張です。性善説を否定する主張として荀子という思想家が見出しました。
簡単に言うと、人間の善なる要素は生まれつきか? 後から学んで身に付けたものか?という話です。
これらの問いに正解はありませんが、本記事では人間の本性がどちらなのか?、個人的に考えてみましょう。
人の本性が善であるなら
今まさに子供が井戸に落ちそうになっている。それを見れば、人間誰しも子供を助けようという気持ちになるだろう。そこに下心はあるまい。
孟子が性善説の例として挙げたものです。
確かにたいていの人は助けようとしますよね。
でも、下心はないのでしょうか?
その行動が、純粋にその子を助けたいという気持ちだけがきっかけになっていると考えるのは違うと思います。
もし目の前で何もせずに子供が亡くなれば、一生忘れられない後悔や罪悪感が付きまとうのではないのでしょうか?
その辛さを回避するために、面倒くさいけどひとまず行動を起こしている。
そう考えることもできるでしょう。
これが下心なのかは分かりませんが、純粋に他人を思っての行為だとは言い切れないと思います。
そもそも善とは何か?
下心なく他人のことを思って他人を助けること。
それが善なのでしょうか?
私はそれが善だと思います。
しかし、他人のことだけを純粋に思って行動を起こす人などいませんから、他人のために自死できる場合以外は偽善です。
他人を助けることでトラウマを回避したり、自己の存在を肯定しようという目的をもって動く人がほとんどでしょう。
寄付も、他人のために何か善いことをしたという私を作るための行動です。善い人になろうとする行為に満足したいのです。
他者貢献によって自らの存在意義を確保するということですね。
結局、人のほとんどの行為は自分自身のために行われています。
だから本当の善などほとんど存在せず、ほぼ偽善です。
人の本性が悪であるなら
人の本性が悪であるなら、赤ちゃんはめっちゃ悪いやつですw。
確かにその頃って、何かしら思うことはあっても、善悪の認識は無いと思うんですよね。
赤ちゃん目線の善悪の話が見つかりませんが、井戸に人が落ちそうになってても助けようとは思わないはずです。
そう考えると、善悪の認識は後天的に取得されるもののような気がします。
例外は存在する
善悪は確かに存在しますが、その具体的な区別は環境によって変わります。
極端に言えば、井戸に人が落ちるのが普通の環境であれば、助けなくても悪ではありません。
サイコパスも存在します。
私達の善悪の認識と、ずれた概念を持っている人達です。
例えば井戸に人が落ちるのが普通の環境で育った人が、井戸に落ちる人を救うのが普通の環境の中に入れば、それは後天的なサイコパスだと言えるでしょう。
また、井戸に落ちる人を救うのが普通の環境で育っていながら、井戸に落ちる人を救おうと思わないという先天的なサイコパスも存在します。
〜まとめ〜性善説と性悪説はどっちが正しいのか?
私は性悪説でも性善説でもなく、中立説を支持します。
赤ちゃんの時点で善悪の判断は無いと思うので、中立だということです。
そして、善悪の認識はかなり早い段階で基礎が作られると思います。
その際に周りの環境と違った善悪の認識が刷り込まれれば、それはその環境ではサイコパスになってしまうので、結局のところ教育って大事ですね。
善悪の認識が刷り込まれれば、あとは自らが見出した善に従って生きるのは全人間共通です。
一般的な社会では、下心なく人を助けることが善とされるようですが、他人のために自死する行為以外は偽善です。
そこに徳を積むなどというステージアップはありません。すべて平等に偽善です。
人は刷り込まれた善の認識から逃れることはできません。
誰かを助けて感謝されて嬉しくない人はいないでしょう。
ただ、その行為も結局は自分のためです。
情けは人のためならずとは、こういうことなんですね。
私も自分自身の善を満足させるために他社貢献をして、存在意義を自分自身に証明するしかないのでしょうか?
それは違うと思います。
自分自身で自分の存在意義を見いだせるはずです。
存在意義とまではいかなくても、このままで生きていければ良いやという気持ちを。
自分で自分自身の存在を認めた上で、他社貢献の偽善によるスパイスを散りばめていく。
それがちょうど良い生き方だと、私は思います。
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