人生とは何かを考えるより、良い人生を送る方法を考えた方が良い。
死とは何かと考えるより、理想の死に様を考えた方が良い。
物事の価値を考えるのは大事だけど、意味を考えるのは壮大な空回り。
そこに意味はないのに勝手に個人の思想を当てはめる。そして自分で作った妄想に囚われて空回る。
— ひばかり (@gintarou_k) September 4, 2021
人生とは?
死とは?
こういったことを考えることもあるでしょう。
私は、全てのものには意味がないと思っています。
意味を与えているのは個人個人の思想です。
これはこういった使い方をするものだ、この人はこうでなければならない。
個人の思想を無理やり当てはめているだけ。
人間関係において考えてみましょう。
Aさんがいたとします。
Aさんはただ存在しているだけで、本来は意味の無い存在です。
しかし、Aさんを結婚相手だと認識したとたん、結婚相手とはこういった存在であるべきだという色眼鏡が付きます。
ただのAさんに結婚相手というボールがぶつけられて形が歪みます。
しかし、それはAさん本来の形ではないので、歪んだ形をAさんだと認識したい側からすると不満が出てくるわけです。
AさんはAさんとして存在しているだけなのに、勝手に自分が与えた思想でねじ曲げて、それと違っているから気持ち悪さや不満を抱く。
凄まじい空回りですね。
人生や死についても同じです。
意味がないのに、人生や死とはという答えの無い問いを永遠にグルグルと問いかけるループ。
それを考えることが楽しいなら娯楽として行えばいいですが、やはり意味のないことです。
でも、生きている限り人生や死について考えることもあるでしょう。
その際には、意味ではなく価値や方法について考えるべきです。
人生とは何か?ではなく、良い人生を送る方法について考える。
死とは何か?ではなく、理想とする死に様を考える。
意味の無いことをひたすら考えるのではなく、具体的な方法を考えた方が遥かに建設的です。
人間関係においては、先程の例を使うと、私にとってAさんがどれだけ大事か?という価値を問いかけるだけで十分です。
Aさんとはこういった人です。それは変わりません。
そしてAさんは私にとって大事なので付き合います。
それで良いはずです。
人は意味のない様々なものに大げさな意味を与えたがります。
色眼鏡を完全に外すことはできないでしょう。
それでも、私の思想でそれを捻じ曲げていないか?
勝手な価値を与えて空回りしていないか?
理想を押し付けていないか?
あらゆる思想の衣を取り除いた姿を考えて、そこに意味ではなく、価値を与えるようにするだけで、だいぶ生きやすくなると思います。
まぁここに書いたことも、結局は私個人の思想で、意味はないという意味を与えているだけなんですけどね。
twitter:@gintarou_k